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コラム・早稲田ローイング

■Vol.03「人間機関車」の記憶

「人間機関車」「ヌマさん」・・・
そう聞いて誰のことだかすぐにピンとくる方は、おそらく50代以上の方々ではないか。
さらにその方々は「あの日」もきっと覚えているのではないか。

ちなみに本稿筆者(33歳)の母は「あの日」を覚えている、しかも鮮烈に覚えている、と言った。「ああ、あの日のテレビニュースねえ、よく覚えてるよ。だって、すごくショッキングなニュースだったからねえ。」

「人間機関車」は、ある年代以上の方々には「あの日」の記憶とともに強く心に刻み込まれた存在なのである。

「人間機関車」「ヌマさん」こと浅沼稲次郎は、戦後、社会党を結成し、書記長、委員長を務めた政治家である。「あの日」とは、昭和35年10月12日。彼が日比谷公会堂での演説中に、突然壇上に駆け上がってきた少年にナイフを突き立てられ、61歳で無念の死を遂げた日のことである。

その浅沼稲次郎が早稲田大学政経学部の学生のころ、ボート部で選手として漕いでいたことは何故か、あまり知られていない。いまの部員たちも、日本史の教科書でその名を一度は見ているにせよ、彼がボート部の先輩であることは知らずに卒業していくことが多いようなのだ。

彼は在部中、どんな漕ぎ手だったのか?知り得る資料はほとんどない。唯一、大正10年ごろの秋の台風で艇庫が浸水した時、真っ先に駆けつけたのが彼だった、というエピソードが残ることくらいである。しかしその後の政治の世界で「人間機関車」と呼ばれるほどの堂々たる体躯、そしてエネルギッシュな人物像は、学生時代にボートを漕いだことがルーツにあることは想像に難くない。

しかし興味深いのは、彼の政治家となって後のエピソードには「人間機関車」に象徴される超人的な側面に、極めて「人情家」な側面が常について回っていることである。ボート部の後輩としての本稿筆者は、自分がこれまで見てきたボート部の諸先輩と、浅沼が同じに見えてきた気がして、何かホッとするのである。

精力的に政治活動をし、一党を率いる身となっても、住まいは江東区清砂の小さなアパート暮らしであり、それを頑固に守り通した。あくまでも自分は民衆の側にいる、という思いだったのだろう。しかし本稿筆者は、彼の眸の向こうには、彼が若き日に青春の櫂のしずくを浴びた心のふるさと・隅田川があったのではと思う。

ここに彼のボートへの熱き想いの一端をうかがい知る証言がひとつある。昭和30年11月のこと。当時、早稲田ボート部1年生の三宮良大(昭34年卒OB)は、現在の8代目戸田新艇庫から数えて先々代、6代目尾久艇庫の落成式に、浅沼(当時は社会党書記長)が超多忙の合間を縫い、一OBとして駆けつけたのを目撃している。その様子、三宮は日誌にこう記している。

浅沼が到着したのは、落成式も終わる間際だった。本来なら重鎮OBとしてのスピーチもするはずが、もう、できない。
その上、落成式後の祝宴に参加している時間すらない。
しかし、せっかく来たのだ。何とか、めでたき新艇庫の全容を、一度にうかがい知る方法はないものか。するとOBの誰かが一計案じた。新艇庫の前を流れる隅田川に、モーターボートを浮かべ、そこに浅沼を乗せたのだ。

いい眺めだ。
隅田川の水上から、浅沼は新艇庫の全容を一望することができたのである。
満足げな浅沼を、1年生部員・三宮は川岸で下働きの手を休め、じっと見つめていた。初めて直に見る社会党書記長の姿。ラジオで聞いた、あの叩きつける口調の演説。
新聞の写真でしか見たことのない、その雄々しき体躯に、太い黒ぶち眼鏡。

そのとき。黒ぶち眼鏡がこちらを見た。
そして三宮ら、川岸の部員たちに向かって、手を振り始めたのだ。

ああ、この人も、この早稲田ボート部で漕いでいたんだ。先輩なんだ。
三宮は何だか誇らしい気持ちになって、思い切り手を振りかえした。

話は戻る。選挙のとき。当時、東京一区といい、かの鳩山一郎と票を争うことになるのだが、豪奢な洋館に住む鳩山に対比して「御殿の鳩山か、アパートの浅沼か」などと囃された。しかし誰に何を言われても、浅沼はアパートを動こうとしなかった。アパートの狭い土間はいつも10人、20人もの同志達の靴が廊下まで溢れかえり、かと思えば窓から顔を出し、外で遊ぶ子どもたちと紙芝居に興じたりする浅沼だった。

それは昭和20年3月10日、東京大空襲の時も同じだった。浅沼はアパートの窓に濡れ布団をあてて猛火を生き延び、火が消えた後には、炎の次に“飢え”に襲われた住民たちの命を救うために奔走している。今でも周辺の住民たちは、このときの恩を忘れることなく語り継いでいるという。

浅沼が愛し、住み続けたアパート「同潤会・清砂通アパート」そして彼が住んだ部屋も残存していたが、この平成16年春、再開発のため、遂に取り壊され姿を消した。
(浅沼がその落成を喜んだ、早稲田ボート部6代目尾久艇庫は、某化学メーカーの施設に役目を変えてはいるが、その白亜の姿は東京・荒川区東尾久の隅田川べりに健在である。)

こんな言葉があるそうだ。
「遠山金四郎と浅沼稲次郎は、江戸の任侠を二分する」
そんな政治家は、もう出てこないだろう。

(敬称略)

望月 博文(もちづき ひろふみ)
1970年、大分県別府市生まれ。別府青山高校−早稲田大学卒。
大学ではボート部に所属、コックスを務める。卒業後は都内のメーカーに勤務、一貫して人事関連業務に従事するかたわら、2001年までは早稲田大学ボート部のコーチも務めた。

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