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コラム・早稲田ローイング

■Vol.07 「サムライたちのとまり木」

「人間はその気になれば、何だってできる。この僕だって、君達のためなら何でも…」
マラソンの瀬古利彦選手を育てた早大競走部の中村清監督は、ある日そう言うや、足元のグラウンドの土をつかみ、自分の口へ押し込み一気に呑み込んだという。

中村学校。その鬼気迫る指導の逸話を、本稿筆者が初めて知ったのは学生時代。
教えてくれたのは、早大西門通りのとんかつ屋のオジさんだ。
なぜだろう、驚くべきことに、早稲田スポーツに名を刻む名選手、中でも「ワセダらしい」「サムライ」そう称される選手ほど、自然にこのとんかつ屋のオジさんに惹きつけられ、脈々と常連が引き続いていた。

瀬古利彦さん、金哲彦さん(競走部)、太田章さん(レスリング部)、岡田彰布さん、石井浩郎さん(野球部)・・・そして、ボート部の岩畔監督。
キラ星の如き名選手たちが目の前で熱く語り、どんぶり飯を頬張る息づかいを通じて、オジさんは知る人ぞ知る、誰よりも「生きた早稲田スポーツ」を知る人となっていた。

金刺正巳さん。昭和45年、30歳のときから早大西門通りでとんかつ屋「フクちゃん」を営んできた。多くを語らず、朴訥だが何者にも媚びず、迎合せず、流されず。既成の枠にとらわれず。温かい眼差しの奥には強烈な意志を秘める。ワセダマン以上のワセダマンである。

その「オジさん」が今年、33年間守った店をたたんだ。そして今、早稲田ボート部員のために戸田の合宿所で包丁を握っている。

オジさんの決断、その中身を聞かされたのは昨年、平成15年の夏。
33年間続けた店をたたむ。そう聞いて驚いた。が、次の話にその数倍驚いた。
「終わるんじゃないんだよ。これは新しい挑戦のスタートなんだからネ。」
終わるんじゃなく「挑戦」。ここがいかにもこの方らしい。
その新しい挑戦とは「第二の人生を早稲田スポーツのサポートに捧げる」こと。
しかもその舞台に、早稲田ボート部を選ぶというのだ。本稿筆者にとっても、もちろん部員たちにとっても夢のような話がトントン拍子に進んだ。そしてこの2月。金刺さんは奥さんの美佐子さんと共に、戸田へやってきた。

ボート選手が1日に摂取を要するエネルギーは約5000キロカロリーともいわれる。一般の20代成人男子が2500キロカロリーというから、スポーツ選手の中でも特に想像を絶する胃袋の集まり、総勢40人。それを満たすのだから大変である。岩畔監督曰く「ボート競技の成績向上とは、『練習』『食事』『休息』この3要素のサイクルを如何に大きく、クオリティ高く、スムーズに廻していくかである」と。一流の競技成績を挙げるには、この3要素のどれをとっても一流であることが求められるのである。

本稿筆者の知る、ひと昔前の早稲田ボート部合宿所の朝食は、当番の1年生が作り、メニューは毎朝ご飯に味噌汁、おかずは焼魚に納豆と決まっていた。それが今、金刺さんの腕による朝食は、色とりどりのサラダあり、フルーツあり、朝からホテルの食事かと思うほど豪華である。昔の選手が見たら驚嘆し、もっと遅く生まれていればと悔しがるだろう。食べる選手も楽しそうだ。そういえば本稿筆者が選手の昔、夏になると練習が厳しい一方で食欲が落ち、げっそりと痩せる選手が続出した。それが今年の夏の現役選手を見ていると、逆にますます筋肉がつき、身体が一回り大きくなった感じがするのである。

それなのに、食費はオジさん着任前の2割コストダウンに成功していると。さすがである。「ボート競技力向上の3要素」の一つである「食事」は、オジさんのおかげで間違いなく「超一流」へと飛躍した。

オジさんが「フクちゃん」を営んだ33年間、積み重ねた早稲田スポーツの選手との熱き交流の中で、最も忘れられない出来事。それはやはり瀬古利彦選手のことだ。
瀬古選手は早稲田競走部の昭和53年、そして54年と福岡国際マラソンを連覇。タイムは2時間10分前後をコンスタントに出し、世界のトップと肩を並べていた。そして最も脂の乗りきった昭和55年、モスクワ五輪の年を迎えた。ヱスビー食品に就職も決まり、宗兄弟とともに「史上最強のゴールデン・トリオ」と呼ばれたころだ。
そこに信じ難いことが起こる。ソ連のアフガニスタン侵攻による「日本政府の決定」。即ち、モスクワ五輪のボイコット、日本選手団の派遣中止である。

それを報じたのは、午前11時のテレビニュースだった。
「一体何のためにここまで…」号泣する選手の涙が、画面に映し出される。
驚いたことに、それから何分もしない11時20分ごろ、瀬古選手が「フクちゃん」の金刺さんをフラリと訪れてきたのだった。

「オジさん、仕方ないよ。自分はランナーである前に日本人であり、早稲田の学生なんだから、国なり学校の決定したことには、従うのが当たり前だよ」
「チャンスはオリンピックだけじゃない。今日これから、いつも通り外苑で走るよ。もちろん明日もね」
どんなにか無念だろう。なのにこの泰然自若。大学4年生の若者とは思えなかった。

そして再起戦、同年12月7日の福岡国際マラソンで、瀬古選手はモスクワ五輪金メダリストのチルピンスキー(東独)といきなり対戦する。前日の記者会見で「モスクワは誰が出てもオレが勝っていたさ」と言い放ったチルピンスキーを、瀬古選手は35キロ過ぎで一蹴。あっという間に置き去りにし、圧勝で3連覇を飾った。
「瀬古がモスクワで走っていれば」新聞に見出しが躍る。
スポーツと政治。人生に一度の、歴史に名を刻むチャンスが踏み潰された。そこに瀬古選手はどう対峙し、どう答えを出したか。オジさんは間近で見守っていたのである。

本稿筆者もオジさんに「早稲田」を学んだ。
学生時代。本稿筆者が頼りないコックスとしてWのゼッケンを背負う早慶レガッタの日。スタートへ向かう隅田川岸の船台、必死で平静を装いながらも緊張で膝がガクガク震えているとき。ポンと肩を叩く人がいた。
「もちづっくん、がんばってネ」
えっ。オジさんだ。選手、監督、大会役員しか入れないはずのエリアに、オジさんが来てくれたのである。
立ち並ぶガードマンを、オジさんは一体どうやって説き伏せたのだろう。

そして試合後のオフ。コックスとして減量に明け暮れていた本稿筆者、この時ばかりは満腹感を味わおうと、漕ぎ手たちの目を盗み「フクちゃん」へ駆け込む。が、しかしである。何も言わなくても、オジさんは定食のご飯を半分にしてくれるのだった…。

そして今。現役の早稲田ボート部員たちは毎日、合宿所でオジさんと語り、癒され、時には叱られ、日々オジさんに有形無形の「早稲田」を学んでいるはずだ。それは或る意味、大学の教室で、どんな高名な教授に学ぶよりも「生きた」早稲田なのである。

オジさんに選んでもらった今の部員たちは幸せだ。心からそう思う。

オジさんはこうも言う。
「超がつく一流になる選手って共通点がある。どこか、物凄く純粋なところがあるんだよ」

<金刺さん夫妻と石井浩郎さん>

望月 博文(もちづき ひろふみ)
1970年、大分県別府市生まれ。別府青山高校−早稲田大学卒。
大学ではボート部に所属、コックスを務める。卒業後は都内のメーカーに勤務、一貫して人事関連業務に従事するかたわら、2001年までは早稲田大学ボート部のコーチも務めた。

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