■Vol.09 「28年ぶりの“金”呼びこんだ名実況」
NHK杯国際フィギュアスケート、早稲田を巣立った荒川静香の初優勝を伝えるTV画面とともに流れてきたのは、やはりこの人の声だった。
中央競馬・第130回天皇賞、ゼンノロブロイのG1初優勝を伝えたのもこの人だった。
「この稍重の、長い長い、長い直線を制すれば、混戦を突き抜けて頂点への道が開けてきます、ゼンノロブロイッ、ゼンノロブロイッ!ゼンノロブロイ悲願達成!」
今や本物のスポーツのある所、この“アナウンスの名人”あり。そんな感すらある。
NHKアナウンサー・刈屋富士雄(昭58年卒)。
早稲田大学時代、4年間えび茶のオールを握り、早稲田ローイングを巣立った人である。
アテネオリンピック、2004年8月16日。日本時間・午前5時39分。
体操男子団体総合決勝で、日本が28年ぶりの金メダルを決める瞬間。
スポーツアナウンス史上に永遠に刻まれるであろう名文句は、生まれた。
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」
それは鉄棒、最後の演技者・冨田洋之選手がまだ空中を舞っている間だった。刈屋アナのその名文句に吸い寄せられるように、冨田選手はピタリと完璧な着地を決めた。
「いまの実況は素晴らしかった」NHK視聴者センターの電話が鳴り続けた。
あるスポーツ紙は「NHK刈屋アナ、実況も金メダル」2面にわたり絶賛した。
刈屋アナの実況が支持を集めるのはなぜか。
最近の民放中心の「絶叫実況」が通常化するなかで、観る者に過不足ない情報を、見事な間合いで伝えていく「数少ない本物のスポーツ実況」であるからだという。
静寂の中でギシギシと鳴る鉄棒の音など、言葉では伝えられないものを伝えるために、あえて沈黙を守ることもある。競技に精通していなければできない名人芸、そう評される。
スポーツライター・玉木正之氏は「『栄光への架け橋だ!』は五輪中継史上最高のアナウンスといえるかもしれない」と題した論説の中で、1936年ベルリン五輪・河西三省アナウンサーの「前畑ガンバレ」はアナウンサーが自国の選手を熱烈に応援した初めてのアナウンスとして語り継がれてきたが、「栄光への架け橋だ!」は、映像テクノロジーが発達し、スポーツをする人体の美しさの伝達技術がより究極に近づく時代に求められる「スポーツへの深い認識を備えたアナウンス」の出発点となる、と予言する。
名文句を生んだ当の本人が、全日本体操選手権の実況を終えた日の夕方、大相撲九州場所の開幕も翌日に控える超多忙のなか、名文句誕生のプロセスを詳しく教えてくれた。
到底ここには全て書き切れないが、それは素人からは想像もつかない、途方もなく緻密な思考から搾り出されたものだった。
――【質問1】あのコメント『栄光への架け橋だ』はいつ考えたのですか?
(刈屋)「正確には『考えた』のではなく『言葉を入れ替えた』のです。入れ替えたのは、冨田選手が鉄棒の演技に入る前にトップ・米国との点差が『8.962』という数字を見た瞬間です。それまでは、団体の予選が終了した時点で考え抜いて、
『伸身の新月面は、体操日本復活への架け橋だ』
で行こうと思っていました。この日の冨田選手の調子からして、着地で大失敗しても
9.200は出る得点です。8.962という数字を見た瞬間、金メダルを確実に取れると確信しました。『復活』を『栄光』に、さらに『架け橋』を強調するために『放物線』を加えました」
――【質問2】なぜ、あのタイミング(冨田選手が空中を舞っている間)で言ったのですか?
(刈屋)「冨田選手の演技構成を考えると、着地の大失敗による減点を考慮しても、離れ技『コールマン』を成功した時点で事実上『金』が確定したと判断しました。その判断を実況のなかで示すために・・・あのタイミングで言ったのです。着地が決まることにヤマを張ったのではありません。自分としては確信の実況だったのです」
――【質問3】コメントは何パターン考えていたのですか?
(刈屋)「100パターン以上は考えました。そう言うと、冗談でしょと笑う人がいます。五輪中継、それも採点競技となれば、刻々と状況が変わって動いていきます。メダルを獲るのか逃すのか、それはいつ決まるのか、単純にそれを想定しただけでも20〜30通りは頭に浮かんできます。アテネ体操の場合、日本は予選をトップで通過したので、決勝の最終種目の最終演技者が日本の3人になり、日本の演技中にメダルの色が決まる可能性が高くなり、そこで神経をすり減らしました。ただ決勝まで想定していなかったのは冨田選手の、着地前に『金』を確信できる状況になるという、稀有の場面です」
こんな話がある。翌月の9月、大相撲秋場所の開幕時、刈屋は大関魁皇にこう声をかけた。「優勝争いすることになったら実況で『綱とりへの架け橋』って言ってあげるよ」
すると魁皇関、15日間の激闘を勝ち上がり、ついに優勝争いの土俵に。
さあどうしよう。刈屋は悩んだ挙句、やはり実況マイクの前で約束を果たしたのだった…。
そして魁皇関は7場所ぶりの優勝。「綱とりへの架け橋」九州場所に臨む。
それではボート選手・刈屋富士雄の足跡を。
静岡・御殿場南高校時代は陸上競技、三段跳びの選手。しかしボート競技、それも「早慶レガッタ」への想い強く「漕ぐために」ワセダを目指し、ボート部の門をたたく。
第1回(明治38年)〜第50回(昭和56年)までの早慶レガッタの記録「早慶レガッタ50回史」その第50回(昭和56年4月26日)をひもとく。
早稲田大学対校エイト「2番」そこに「刈屋富士雄」の名前は刻まれている。
この年の早慶レガッタは、好天下に空前5万人の大観衆を集めた。
刈屋の漕ぐ早稲田エイトはその前で、史上稀にみる大接戦をものにした。
ラグビー等と同様、エイトを漕ぐ8人のポジション配置にも適材適所の妙がある。
刈屋が漕いだ、エイトの進行方向から2人目の「2番」とはどんなポジションなのか。
少なくとも、力自慢が力まかせに押しまくるポジションではない。
まず、艇の先端に近いので、縦にも横にも揺れが大きい。その中でも自在に漕ぐ敏捷性。
そして(これが重要なのだが)敵の挙動も、味方の様子も、常に見渡せる位置であるということ。練習のときはコーチ役。そしてレースの時は敵にリードされれば横に敵が見えないであろう(エイトは全長20m近くある)味方の漕ぎ手に、冷静かつ的確な声出し…コーリングで、情報(敵はまだ離れていないぞ、疲れてきたぞ等)を与え励まし続けることが求められる。リードされているレースでは、艇先端の「バウ」そしてこの「2番」のコールが、神の声ともなり、そのおかげで大逆転をものにする時さえある。
「刈屋アナウンサー」の常に冷静な、視聴者に心地よく過不足ない情報を与えてくれるアナウンスぶりのルーツは、刈屋が務めたこのエイトの2番というポジションにあるのではないか。5万人の観衆の前での大接戦、嵐のように押し寄せる歓声の中でも「2番刈屋」のコーリングの冷静さ・的確さは、味方に勇気を、敵には恐怖を与えていたのではないか。本稿筆者は勝手に思いをはせるのである。
いずれにせよ、刈屋のアナウンスが「本物」と評されるのは、やはり自身が「本物の」競技アスリートとして身を削った経験がバックボーンにあるからと考えて間違いないだろう。
話かわって、4月。春爛漫の西早稲田・早大本部キャンパス。
サークルを物色する新入生が「とりあえず」第1回目の授業に出るころ。大隈銅像前、昼休みの華やかな雑踏の中に、突如、異様に太い腿が目立つスパッツ姿の若者が9人。
その傍らにはマイクを持った端正なたたずまいの紳士が立つ。紳士は折り目正しく、しかしユーモアも自在に交え語りはじめる。誰もが聞き覚えのある声。道行く学生、反応せずにいられない。次々に足を止める。「あれ」「大相撲の…?」「ここは両国国技館!?」
これが「早慶レガッタ学内壮行会」である。その次の日曜日、早慶レガッタに出場する早稲田ボート部対校エイト9人の選手を、刈屋アナウンサーが道行く一般学生に、あの名調子で凛々しく面白おかしく紹介するのである。刈屋はこの日、ボート部後輩のために超多忙の合間をぬい、この20分間だけ、早大キャンパスに駆けつける。
刈屋の紹介が、ストローク、7番、6番…と進み「2番」の選手紹介のとき。
「ワセダの2番は、色男が漕ぐと決まっています。なぜなら、僕が2番を漕いだから」
大隈銅像前は爆笑に包まれる。
肝心のボート部員、レガッタ出場メンバーではなく「刈屋アナウンサー」にサインをねだる学生の列ができていた。
(敬称略)
刈屋アナウンサー
![]() |
望月 博文(もちづき ひろふみ) |
※コラム・早稲田ローイングについてご意見・ご感想はこちらへどうぞ
お問い合わせ先 boatcolumn@wasedaclub.com