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ニュース・コラム

コラム・早稲田ローイング

■Vol.15 「次の100年−更なる進化へ」

レースというより「事件」だったかもしれない。
昭和32年(1957年)の第26回早慶レガッタ。

ある漕ぎ手は、ほとんど漕がぬまま、レースは終わった。
まったく疲れないまま、勝敗だけが決まっていた。
審判の裁定を受け入れつつも、敗者にも勝者にも、やはり「不完全燃焼」の文字はちらついたはずだ。あの積み重ねた猛練習への答えは、どこへと消えたのか。

煮え切らない思いとは裏腹に、この「事件」こそが早慶レガッタ100年の歴史の中では恐らく、最も世の関心を集めるエピソードとなる。新聞に大きく報道されたばかりか、小学校6年の国語の教科書に「あらしのボートレース」として昭和36年から昭和45年まで掲載され、およそ300万人の小学生が読むことになる。

そのレースでは何が起こったのか。
教科書の簡明平易な記述で追うことにする(以下引用)。

(学校図書(株)協力)

 

「あらしのボートレース」

昭和32年5月12日、伝統の第26回早慶ボートレースが行われました。前夜からの雨は、まだやまず、さらに、春特有の強風に加えて、隅田川の水面には、かなり大きい波が立っていました。

この一戦に備えて、早稲田・慶応の両大学ボート部の選手たちは、長い間、はげしい練習を重ねてきましたが、試合前の予想では、慶応の勝利がほとんど確実であると見られていました。というのは、慶応のボート部は、その前年のメルボルン・オリンピック大会にも参加しており、その時の選手の一部が、まだ残っていたからです。
しかし、この悪条件では、勝敗は、はたしてどうなるかわかりません。慶応のかんとくは、レースに先だって、選手たちに言いました。

「みんな、全力をふりしぼってこいでくれ。この波では、ボートの中に、水がはいってくるかもしれない。しかし、ボートレースというものは、あくまでも、みんなが力をあわせてこぎぬく競争だ。もし、はいってくる水に心をうばわれて、ふだんの練習の力を出せなかったら、相手の選手に対して失礼なことだ。どんなに苦しいことがあっても、力いっぱい戦うことが、スポーツマンにとってたいせつなことなのだ」

一方、早稲田のかんとくは
「たとえ、試合には負けても、けっして、ボートをしずめてはならない。ボートをしずめることは、ボートマンにとって、もっともはずかしいことだ。きょうは、波がたいへん高い。もし、ボートに水がはいってきたら、4人でこいで、残りの4人は水を出してもいい。みんな、最後までがんばって、ボートをしずめないでくれ」
と言って、各選手に、水をくみ出す器をわたしました。

スタート直後、両国橋付近までは、予想通り、慶応が、だんぜんリードしていました。かさをさして試合を見ていた観衆も、ほとんど、その勝利を信じていました。
ところが、蔵前橋を過ぎるころから、慶応のボートは、しだいにおくれ、早稲田が、じりじりと、差をつめ始めました。

慶応のボートには、だんだん、水がはいって、ついには、選手のこしをぬらすほどになってしまったのです。それでも、選手たちは、誰ひとりオールを放さず、力いっぱいこぎ続けました。しかし、ついにゴールにははいれず、ボートはしずんでしまいました。


先行する慶應クルー


沈没した慶應クルー

早稲田のボートでは、水がはいってくると、何人かの選手がくみ出し係になって、はるか前方を行く慶応のボートの速さに、くちびるをかみながらも、少ない人数でこいでいました。しかし、しん水で速力のおとろえた慶応を、駒形橋の近くで追いぬき、勝敗は逆転したのです。

ところが、岸に上がった早稲田の選手は、しんぱん長に、試合のやり直しを申し出ました。「これは真の勝利ではない。この悪天候では、ほんとうの力は出せない」というのです。しかし、しんぱん員の相談の結果、申し出は採用されず、早稲田の勝利と認められました。

慶応の選手たちは「試合に対する準備が足りなかったのだから、早稲田の勝利は正しい。明らかに負けたのだ」と言って、早稲田の勝利に、心からの拍手を送りました。

 

「沈没まぬがれず」の事態に直面しての早慶両クルーそれぞれの信念の貫徹、さらには両クルーが互いに好敵手への敬意を忘れず、尊重しあったこと。そこに世人の興味は注がれ、スポーツマンシップの鏡と賞された。

しかしコックス経験者としての筆者は考える。監督から指示があったにせよ「漕ぎやめて」「汲み出す」ことを最終的に決断し、漕ぎ手に命じたのは艇長たるコックスのはずである。この美談の奥にはコックスの孤独な、想像を絶する葛藤があるのではないか。
筆者の経験からすると、どんな悪条件とはいえ、実際にはレース中の漕ぎ手に「汲みだし役」を命じることなど、そうたやすく実行できるものではない。

このレース、早稲田のコックス、島田裕光(昭33年卒)に聞いてみた。
「そうだね。我ながらよく腹をくくったもんだと思うよ。結果的には沈まなかった自分たちの勝ちとなったけど、慶應が大差で逃げ切るだけに終わる可能性も十分あった。そうなればファンや関係者の叱責を受けることはもちろん、自分の判断が失敗だったとして歴史に刻まれるわけだよね。思えばあの緊張と重圧の中で、しかも短時間で、あれだけの決断を下したことはその後の人生経験でも無いね。案の定、水を汲みだしはじめたら、追尾艇から『島田バカヤロー、全員で漕がせろ』なんて声も聞こえたんだ」

島田は現在、東洋濾機製造(株)の社長として国内外の従業員1,600名の巨艦の舵をとる。
「今も判断、判断の日々だけど、あのレースを思えばなんにも怖くないよ」

このレースを漕いだ早稲田のメンバーに話を聞くと、実はある共通項に気付く。
それは「美談の主人公の誇らしさ」とは異なる。
「練習の成果をぶつけて得られた結果ではない、不完全燃焼のもどかしさ」
美談になった遣り取りとは別に、やはりそれは悔恨として存在するのである。

美談に水をかけるつもりはないのだが、今後のために私見をひとつ。
昭和32年のレース当日は“大潮”だった。水位が大変高くなり、極端に大きな波が出やすくなることは予測可能だったはずである。近年でも大潮の日にレースが行われることがある。やはり大会運営側としては、選手が練習の成果を可能な限り発揮しうる配慮を尽くすのが、本来あるべき運営の姿であろう。

早慶レガッタ、次の100年で最大の話題は、どんなものとなるだろう。
筆者願わくは「世界に通用するハイレベルなレース」である。
ワセダクラブ・ボートスクールで漕ぐ子どもたちを見つめると、筆者の夢は果てしなく膨らむ。この子どもたちが、隅田川の主役となるころには実現できるだろうか。

(敬称略)


<沈没レースを報じる新聞記事>


<最近のレース風景>
 Photo by S.Tsuda

■今年の早慶レガッタ(100周年記念大会)は4月17日(日)隅田川で開催されます。
→早慶レガッタ公式ホームページはこちらへ

望月 博文(もちづき ひろふみ)
1970年、大分県別府市生まれ。別府青山高校−早稲田大学卒。
大学ではボート部に所属、コックスを務める。卒業後は都内のメーカーに勤務、一貫して人事関連業務に従事するかたわら、2001年までは早稲田大学ボート部のコーチも務めた。

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