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Rugby football

早稲田大学ラグビー蹴球部の紹介

歴史・伝統

歴史

 戦後は敗戦間もない21年から対抗戦が再開された。早明時代はそのまま引き継がれたが、25年から29年までの5シーズン、早稲田ラグビーにとって、そして日本ラグビーにとって忘れ得ない人が監督の座に就く。大西鉄之祐氏である。

 5シーズン中、3回も早稲田を全国優勝に導いた大西監督は自らラグビー理論を作りあげては練習の場で試し、確固たる戦法に練り上げた。ラグビー発祥の地、英国から進んだ技術書を取り寄せ、徹底的に分析し、一晩に200枚近くの作戦図を書き上げたこともしばしばだった。

 後の昭和43年の全日本監督としてのニュージーランド遠征では、体格で劣る日本人が巨漢ぞろいの外国人相手に戦う戦法として「接近、連続、展開」を編み出した。大西氏はそれでも、新戦法にはボール奪取が欠けているとして「ボール奪取、接近、連続、展開」と修正した。

 理論家、戦略家の大西は熱情の人でもあった。「惚れ込んだら、苦しみも楽しみに変わる。惚れ込めないような者はラグビーをする資格なし」と学生たちを励まし続けた。第2期黄金時代を成し遂げた大西が監督を辞めた後、早稲田は何度も崖っぷちに追い込まれた。

 部員不足がたたった上、中大、法大などの新興勢力の台頭もあって36年度には二部グループへの転落という苦難を味わった。慶明も振るわず、35年の早明戦はわずか1235名の観衆だった。

 「早稲田危うし」の声が高まる中で、再び大西氏が陣頭指揮に立った。主将の木本建治(故人)も大西を手助けした。木本は下級生を鍛えに鍛えた。練習後には部員がグラウンドに倒れ込んでしまうまで走り続けさせた。その効果があって4年後の40年には対抗戦、大学選手権を勝ち抜き、日本選手権でも八幡製鉄を下して初の日本一に輝いた。

 この年から51年までの12年間、早稲田は大学選手権で9回も優勝、45年、46年には新日鉄釜石、三菱自工京都の社会人の強豪を破り、2年連続日本一を獲得した。早稲田の強さの秘訣は東伏見での練習にあったとされる。

 グランド外では仲間同志の部員がいったんグランドに立つと、戦士と化した。

 練習試合では一軍を打ち負かそうとする二軍の闘志は燃えさかり、死力を尽くしてライバルに襲いかかった。三軍は二軍に、四軍は三軍に、一歩でも上に這いあがろうと挑んだ。「他校の選手より、部内の相手に勝つ方が難しい」。部員の誰もが緊張して練習に望んだ結果が躍進の秘密だった。

 しかし、37年以来、早稲田に13連敗という明治が次第に力をつけ始めていた。北島監督の「前へ」を信条とし、FWで早稲田を押しまくった。「好事魔多し」の例えのように対抗戦60連勝を続けていた早稲田は部員の不祥事が起き、52年は夏の終わりまで試合を自粛した。ようやくシーズン前に自粛が解けたが、14年間無敗だった慶応に17−34の大差で敗北した。宿敵明治にも56年まで4連敗を喫してしまった。

 早稲田は屈辱的な連敗を止める手は大西氏の再登場しかないと判断した。心臓の病気で悩む大西氏はニトログリセリンを胸に忍ばせて指揮を執った。夫人のアヤさんは練習にも、試合にも付きっきりで見守った。不利と見られた早明戦の5連敗も免れ、大西氏の選手の起用や戦術は“魔術師”とまでうたわれた。


大西 鉄之祐氏


木本 建治氏