だが、大西氏を持ってしても51年を最後に早稲田の大学日本一への道は9年間も閉ざされた。一方、明治、同志社は4回も優勝し、早稲田は二校に置いて行かれた状態が続いた。常勝・早稲田衰退の原因は入学難による選手層の薄さが大きな原因であった。他校は推薦入学制度により、有望な高校生を獲得したが、早稲田は入学難が年々高まるに連れて逆に進学校からの入部者に頼らざるを得なかった。 1年の春に行われる明治や慶応との新人戦では、早稲田が打ちのめされるのが常だった。早稲田の選手は2年生の後半当たりから、ようやく他校の選手と戦える体力が備わるからである。 9年の雌伏を経て62年、あの熱血の主将だった木本氏が監督に就任。久しぶりに、高校ナンバーワンと目された有望選手も戦力に加わり、対抗戦の「雪の早明戦」を乗り切った。大学選手権でも同志社を下して、4度目の日本一に挑戦した。社会人の覇者・東芝府中の中村賢治監督は早稲田OB。現役の時は木本監督の指導も受けた。 圧倒的に不利と見られた早稲田だったが、東芝のラインアウトをことごとく奪い、22−16で快勝した。 シーズン中に何度か組んだ東芝とのスクラムでは、東芝の一押しでずるずると後退してしまう場面が何度もあったが、いざ試合になると押し負けることは一度もなかった。ラインアウトでも東芝のサインは全て読みとっていたという。 平成元年にも大学日本一になるものの、以来14年まで13年間も大学日本一から遠ざかってしまった。決勝に進んでは明治や大東文化大、関東学院などのFWに力負けする状態から抜け出せなかった。 平成13年、早稲田は思いきった措置を執った。大試合の経験も豊富でかつ社会人のナンバーワンチームの主将も務め、現役を退いたばかりの清宮克幸氏をフルタイムの監督に起用した。清宮監督はコーチ陣を気があった同期生で固め、FWに社会人経験コーチを配置してボール奪取から早いテンポで展開する戦術を選手に植え付けた。 自らの身を使っての指導は、学生の感動を呼び、部員全員を「監督を信じれば勝てる」の気持ちにさせた。一年目は関東学院に惜敗したが、14年は無敗の快進撃を続け、13年ぶりに大学日本一をもぎ取った。大半の試合は先手を取り、後半はスタミナを生かして引き離す戦法を駆使した。 早稲田は昭和50年代始めから平成年代にかけて、優勝の後、決まったように長い低迷に見舞われている。その原因を分析し、長期戦略を立てればジンクス打破も可能であろう。早稲田の栄光が1年でも長く続くためにも。 |
|
|
|