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Rugby football

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Wonderful Rugby 〜もっとラグビーを楽しもう〜

ラグビーに興味があるけどあまり良く知らない、あるいはラグビーを全く知らない人に向けて、これだけは知っておきたいラグビー情報をシリーズでお届けします。

Scrapbook history of rugby スクラップで読む日本ラグビー史〜

日本国内で、初めてフットボールに関する記事を取り上げたのは、一八六六年一月二十六日付けの横浜の日刊英字新聞ジャパン・タイムズ・ディリー・アドヴァタイザーである。旧暦にすると慶応元年十二月のことである。日本のラグビーのルーツ校といわれる慶応義塾にラグビーが導入される三十三年も前のことだ。横浜には、在留欧米人による長いスポーツクラブの歴史があり、それは今も横浜根岸台のYC&ACに引き継がれている。
 この連載では、以来現在に至る百三十七年余りの間に書きつづけられたラグビー記事を集めた私のスクラップブックの中から、その時々の話題を拾いながら最終的に日本ラグビー史を綴ろうというものである。

年表

■Vol.11 フランス流 le rugby-champagne

 2005年7月20日、日本ラグビー協会は、日本代表のヘッド・コーチに、ジャン=ピエール・エリサルド(51)の就任を正式に発表した。また、元フランス代表監督のピエール・ヴィルプールのアドバイザー就任も発表された。エリサルドは、フランス代表として1980年の南ア遠征でSHとして初キャップ。その年のルーマニア戦、翌年のオーストラリア遠征の1、2戦(1T,1DG)、ルーマニア戦(1T)まで5キャップを獲得している。

 1982年2月、全早大は、1927年の豪州遠征以来55年ぶりに英仏遠征を行う。遠征チームの監督は、3度目の早大監督に復帰した大西鐡之祐。早明戦では、「新聞とオレのどちらを信ずるかだ。オレを信ずれば勝てる」と選手を送り出した。結果は、明大有利の評を覆す21対15の勝利。全勝で5年ぶりの関東対抗戦優勝を飾った。

 遠征チームは、オックスフォード大、ケンブリッジ大との対戦の待つ英国入りの前に2月25日、パリでパリ大学クラブと対戦する。1962年に来日したP.U.Cである。全早大は、前半31分に本城和彦(3年、久我山高)のPGの3点だけ、9トライを奪われ50対3と完敗する。

 ロンドン入りした大西は、サンケイスポーツの末冨鞆音特派員に語る。
「早大といわず、日本ラグビーの今後はフランスを研究すること。以前からそんな考えをもっていたが、今度の一戦で痛感したよ」と“将来の半世紀”の方向付けを口にした。

 2月28日付けの記事の見出しは、豪州遠征以来の“ゆさぶり”から、「半世紀ぶりに早大転換、自由奔放の仏ラグビーへ」。
大西は、「どんなトレーニング法で鍛え上げたのか。人材がいるなら、トレーニング学を学ばせたいし、機会があれば選手のフランス留学も考えたい」と惚れ込む。

 大西を魅了したのは、シャンペン(注:シャンパンではない)・ラグビーの自由奔放さ、変幻自在さ。多彩なサイドステップに、相手にはどう変化するのか、攻撃パターンが読み取れない。この遠征で、全早大は、オックフォード大から27点を奪ったものの27対40で敗れるが、エジンバラ大を20対10、そしてケンブリッジ大には、13対12と1点差を逃げ切って、日本の単独チームとして対ケ大初勝利をあげた。しかし、サイズで劣る日本が、大型の外国チームに対抗するには、フレンチ・フレアーしかないと確信する。

 帰国後まとめられた「早稲田ラグビー 英仏遠征記1982」に大西は、次のように書いた。
「私は南仏遠征(注:1980年10月、オランダも含む)後、フランスラグビーに注目すべきだといい続けてきたが今回の遠征でその意を強くしている。こうして常に新しい刺激を受けて前進する環境に置かないとクラブは前進しないという証左として、ワセダラグビークラブの前進のためにも考えなければいけないものと思われる。」

 1980年の遠征の時期に、前年政治的理由で中止になったフランスの南ア遠征が急遽短期で行われることになり、日本対フランス代表戦以外の3試合が、地区選抜チームではなくフランス選抜のセレクションとして行われた。日本と対戦した選抜チームには入っていなかったが、先に述べたように南アとの最終戦のテストマッチでは、代表キャップ15を持つジェローム・ガリオンに代わってSHとしてエリサルドがデビューした。

 日本代表は、2005年4月の南米遠征を前にフランスで合宿、今年から取り組んだフランス流ラグビーの習熟につとめた。しかし、ウルグアイ、アルゼンチンに連敗。帰国後W杯予選の香港、韓国を下し、スーパーカップでは、ルーマニアに欧州遠征の雪辱を果たしたが、決勝では若手中心のカナダに敗れた。スポーツ新聞各紙は、「フランス流熟成せず」の見出し。直前に連続した東京・六本木での代表選手の暴行事件からの挽回を図る日本にとっては、重い結果だった。
さらに、来日したアイルランド戦では、スクラムが安定せず連敗を喫し、ついに萩本光威監督の解任となる。

 茗渓学園を率いて中高一貫教育の特徴を生かし、ウェールズ・フレアーを教え込んだ徳増浩司は、昭和天皇の崩御で双方優勝という結果となったものの深津光生、赤羽俊孝のHB団の華麗なパスなど魅力あふれるプレーを花園ラグビー場に実現させた。

 シャンペン・ラグビーといわれるフランス流のラグビー。果たして大西が、「今後半世紀の課題」とした研究が、4半世紀前に本格的にスタートしていたら日本ラグビーの現在はどのように変わっていたのだろうか。茗渓学園高の例に待つまでもなく、各レベルの日本代表を一貫する日本オリジナルの戦術として確立し、完成を目指さなければその成功はありえないことだ。

秋山陽一(あきやま・よういち)
1947年東京神田生まれ。ラグビー競技歴なし。都立田園調布高校時代の同級生、漫画家の植田まさしや関西学院大教授の植島啓司がラグビー部にいた。1972年早大第一商学部卒。TVKテレビに入社し関東大学ラグビー中継に携わる。放送開始に当たって手書きの記録集「関東大学ラグビーハンドブック」を作成、これがラグビーの記録との出会いとなる。1990年頃から日本のラグビー黎明期の歴史に興味を持ち調べ始め、以後、神保町の古書街やラグビー協会の倉庫での発掘作業が続く。2003年1月からフリーに。

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