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Rugby football

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Wonderful Rugby 〜もっとラグビーを楽しもう〜

ラグビーに興味があるけどあまり良く知らない、あるいはラグビーを全く知らない人に向けて、これだけは知っておきたいラグビー情報をシリーズでお届けします。

Scrapbook history of rugby スクラップで読む日本ラグビー史〜

日本国内で、初めてフットボールに関する記事を取り上げたのは、一八六六年一月二十六日付けの横浜の日刊英字新聞ジャパン・タイムズ・ディリー・アドヴァタイザーである。旧暦にすると慶応元年十二月のことである。日本のラグビーのルーツ校といわれる慶応義塾にラグビーが導入される三十三年も前のことだ。横浜には、在留欧米人による長いスポーツクラブの歴史があり、それは今も横浜根岸台のYC&ACに引き継がれている。
 この連載では、以来現在に至る百三十七年余りの間に書きつづけられたラグビー記事を集めた私のスクラップブックの中から、その時々の話題を拾いながら最終的に日本ラグビー史を綴ろうというものである。

年表

■Vol.03 初代日本代表PRとFBは、記者兼任 Two Player Writers

 1930年5月8日、日本ラグビー協会は、8ヶ月に渡る交渉を経て、ラグビー・オブ・カナダのワズワース副会長から正式回答が到着したことから、日本代表チーム初の海外遠征を発表した。すでに5月4日には神宮競技場で2試合の選考試合をおこなっていたが、18日にも大阪の花園ラグビー場で二回目の選抜戦を行い25人の代表を決定し、6月7日に神宮で壮行試合を実施、8月上旬山中湖の合同練習で充分チームワークを整え、中旬横浜港からカナダに向かい9月一杯カナダに滞在の上数回の試合を行うという。

 6月2日、カナダ遠征選手20人が正式に決定される。ただし、交渉中3人となっている。補欠4人の中には、法政大の鈴木秀丸の名前もある。早稲田からは、FW太田義一、TB柯子彰、FB小舟伊助の3人が選ばれた。監督は、香山蕃。

 香山蕃監督と追加のメンバーを加えた選手25人の一行は、8月17日横浜港を大阪商船布哇丸でカナダに向かい、予定より1日早い28日に到着する。早速9月1日に初戦の対ヴァンクーバー戦が、スタンレー公園で挙行される。

 3日付けの東京朝日新聞には、ヴァンクーバー発の聯合電として、「劈頭の一戦に日本軍悠々勝つ」の見出しが踊る。日本先蹴で始まったが、両軍共にセブンシステムで好試合を展開、日本チームが22―18で後半逆転勝ちした。

 東京日日新聞は、少し違った紙面を作る。

 「快勝した嬉しさ カナダ遠征ラグビー第一信」の見出しで、「(初戦の勝利で)当地の在留邦人は肩身が広くなったとて、その喜びはこの上もない。われらもまた嬉しい。(中略)われゝが戦ったのはヴァンクーバーにおける五つの倶楽部の代表チームであるが、大変組しやすいといふ感じを受けた。背の高いことは勿論体重が平均廿五貫以上で、その上足が早いが、パス緩くこちらが確実なタックルさへすれば、そう恐るべきものではないと確信を得た」

 そして相手チームでは、柔道家同様のからだつきのケンブリッジ大学にいたレロイがトライ2つを挙げ活躍したことを伝える。記事には、写真付きで寺村、岩下両選手発と署名がある。

 寺村とは、1928年東大を卒業し、東京日日新聞(現毎日新聞)外信部記者として活躍していた寺村誠一(遠征時24歳)、岩下も1929年慶応大を卒業して東京日日に勤めた岩下秀三郎(同26歳)のこと。日本代表に選ばれ、カナダでの第一戦では、FBとPRとして出場したが、二人はプレーヤーと特派記者の二役を務めた。

 1930年10月に創刊された日本協会の機関誌「ラグビー」に橋本寿三郎が、代表の詮衡事情を書いている。

FW 岩下秀三郎(慶応OB) タイトに良くルーズにも良く而もオープンプレーの強い、特にオールウェーズオンザボールの化身とみる程忠実であり、スクラム近傍より球を得て第一攻撃を開始する時のスピードに於いては当代一のプレーヤーである。(後略)

FB 寺村誠一(東京大OB) 第1回関東関西の関東軍のFBとして活躍した。正に当代一のフルバックになってからも既に年あり。球に就てのジャヂメントに於いては、彼の如き正確なる者を見ない。特に挺身攻撃に参加する事が、彼がゲームその物に対する理解の一端を示している。

 寺村は、1928年2月12日、阪神甲子園南競技場で行われた第1回東西対抗に関東代表のFBとして出場した。0―6とリードされた後半6分、関西は味方ゴール前5ヤードのスクラムから出たボールを得てキック、しかしタッチならず。この球をフルスピードで走ってきた寺村が30ヤード付近から直線35ヤードのDG(当時は4点)を狙って見事に成功、4―6と追撃の狼煙(のろし)をあげた。関東は、14分中村―板倉と渡り右中間トライ、板倉のコンバートも決まり9−6とし、初の画期的な大試合に逆転勝ちを飾る。この活躍が大きな評価につながったようだ。

 9月16日の紙面にも岩下と寺村のリポートが載る。
「連日各所の見学に忙しき上に、毎夜重なる歓迎会には、戦わねばならぬ身には全く閉口するほどである。第1戦苦戦の後快勝した夜にこれを認めて18日横浜着のエムジャパン号に託す」
 パーティ攻勢の上に、二人は記事も送るのである。予定より早く日本に届いた第2報で岩下はカナダのFWを分析して、
「オールブラックス遠征(注:1925年のイングランド遠征後カナダでも試合をした)の影響を受けて2−3−2を採用しているが、第1戦は、3−4によった。」
と、ファイブエース二人、スリークォーター四人、結局六人のスリークォーターラインの陣形に戸惑い、タックルも甘かったが最初続けざまに3トライを奪われたことを分析している。
 一方寺村は、カナダのTBについて
「彼らの与える最も大きい脅威は足の早いことである。味方の誰よりも彼らのバックスは、足が早かった、一度抜かれたらもうお終いだ、前半3つもあっけなくトライされた根本の原因は、相手の実力が分からなかったので少し固くなったこと…」
 それに加え、日本での習慣のように試合前グラウンドに出てウォームアップができず、勝手が違ったとも言う。

 そして、9月26日の朝刊には、夕刊の速報に続いて、今度は船便でなく二人の第3報が、「両本社員発のヴァンクーバー特電」として掲載される。見出しには、
「鳥羽選手の負傷にティレット氏の提議 わが選手一同が感謝 ラグビー遠征軍引分け続報」
 開始直後に鳥羽が鎖骨を痛めてフィールド外に運び出された時、ブリティシュ・コロンビア・ラグビー協会会長で代表コーチのティレット氏が鳥羽をマークする選手を外すことを提議したが、香山監督は拒絶した。結局鈴木秀丸を入れて試合を続行したという有名なエピソードは、引分けを伝える同日付けの東京朝日新聞にはなく、選手兼記者の二人の特ダネだった。

 これには、もう一つおまけが付いている。ラグビーマガジンの1975年7月号の連載「ラグビーアニマル」に『鋭い目でラグビー界をみまもる”アルペン”』のサブタイトルで、当時72歳の毎日広告社社長岩下の記事が載る。

 「昼間はプレーヤー。ゲームが終わると新聞記者に早変わりして、試合の模様を日本に送る。さらに『加奈陀新聞』『大陸日報』といった地元の邦字新聞の記事まで書いたりした。」
 地元紙に書いたのはラグビーのわかる記者がいなかったからという。
 加奈陀新聞には、戦績3−3の引き分けの戦評と、「美はしき武士道精神 チレットの真情に香山監督感激して泣く」の見出しで、香山のコメントが載っている。
「真のスポーツマンを番香坡(バンクーバー)に発見したことが何よりも嬉しかった。武士の精神を解するものは武士だ。」

 2003年8月26日の新聞各紙の訃報は、23日に初の海外遠征の最後のメンバー寺村が、八王子市の病院で肺炎のため死去したことを伝える。享年94。

年表

秋山陽一(あきやま・よういち)
1947年東京神田生まれ。ラグビー競技歴なし。都立田園調布高校時代の同級生、漫画家の植田まさしや関西学院大教授の植島啓司がラグビー部にいた。1972年早大第一商学部卒。TVKテレビに入社し関東大学ラグビー中継に携わる。放送開始に当たって手書きの記録集「関東大学ラグビーハンドブック」を作成、これがラグビーの記録との出会いとなる。1990年頃から日本のラグビー黎明期の歴史に興味を持ち調べ始め、以後、神保町の古書街やラグビー協会の倉庫での発掘作業が続く。2003年1月からフリーに。

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