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Rugby football

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Wonderful Rugby 〜もっとラグビーを楽しもう〜

ラグビーに興味があるけどあまり良く知らない、あるいはラグビーを全く知らない人に向けて、これだけは知っておきたいラグビー情報をシリーズでお届けします。

Scrapbook history of rugby スクラップで読む日本ラグビー史〜

日本国内で、初めてフットボールに関する記事を取り上げたのは、一八六六年一月二十六日付けの横浜の日刊英字新聞ジャパン・タイムズ・ディリー・アドヴァタイザーである。旧暦にすると慶応元年十二月のことである。日本のラグビーのルーツ校といわれる慶応義塾にラグビーが導入される三十三年も前のことだ。横浜には、在留欧米人による長いスポーツクラブの歴史があり、それは今も横浜根岸台のYC&ACに引き継がれている。
 この連載では、以来現在に至る百三十七年余りの間に書きつづけられたラグビー記事を集めた私のスクラップブックの中から、その時々の話題を拾いながら最終的に日本ラグビー史を綴ろうというものである。

年表

■Vol.04 東西大学対抗ラグビー Varsity Matches Between East and West

 1947年12月27日、戦争で中断していた早稲田大と関西学院大の定期戦が復活する。場所は、東京ラグビー場。戦後ラグビー関係者が場所探しから、資金集めまで、自力で作り上げた現在の秩父宮ラグビー場である。当初は、10月一杯で竣工し、11月9日の慶明戦でお披露目されるはずだったが、工事が延びたため、まず、11月22日の明治OB対学士ラガー(東大OBチーム)と明治東大戦が、最初の試合となった。翌日の早慶戦もここで行われたが、朝日新聞には、東京ラグビー場では、馴染みが薄いと考えたのか、紙面では、青山新設ラグビー場と紹介している。

 戦前から1964年度までは、実質的な大学日本一を決めるため、東西の有力校が暮れから正月にかけて、毎年交互に関東か関西のどちらかで定期戦を開催し、短期間に2〜4試合を行っていた。戦後初の対戦は、関西学院大が立命館大、京都大、同志社大の4大学で行われた関西大学リーグを3戦全勝で制し、初の大学日本一の座に着こうと東上し、この日東京での初戦を迎える。

 一方、早稲田は、明治に破れ関東2位に甘んじていた。関西学院大とは、1934年に花園ラグビー場で初対戦して44−0と圧倒する。4年後の1938年から定期戦となり、戦前最後となった1943年1月5日の第5回定期戦を入れて6戦に全勝する。1939年12月26日に神宮競技場で行われた試合では、早稲田がそれまでの7FWら8FWに変更して対戦、スクラムのボールを独占する効果をあげ、64−3と相手を前半の1トライのみに封じ込める。新聞のコメントは、関東における東京商大程度の関学相手では、押しの強化如何は不明としている。ところが、翌日に早大戸塚球場で予定されていた、同志社との二軍戦が中止となったため、ラグビーではあまり考えられないことだが、来年卒業の選手を除いた布陣で二日連続して対戦して、この試合でも61−0と完封勝ちをする。

 戦後初対戦を裁いたのは、慶応OBの北野孟郎レフェリーだった。午後2時関学先蹴で試合は始まった。この試合、毎日新聞の記事の署名は、北野孟郎。つまり、レフェリー兼取材記者である。北野は、次のように書いた。

 「関学のFWは開始とともに物すごい突込みを見せて早大を圧した」

 戦後3年目にして黄金時代を迎えた関学は、これまでのチームとは違っていた。しかし、前半は、左へのパスを早大右WTB畠山勉(秋田工)がインターセプトして長駆80ヤード独走トライ、さらに39分にも高倉泰三(大連一中)がトライ、いずれもコンバート決まって、10−0で折り返す。

 後半に入ると関学は、早大TBのラインを割って八橋の2トライと北江、馬場のトライで、14−15の一点差に迫り、近来にない好試合となる。関学は、早大のエースSOの堀博俊(修猶館中)を完膚なきまでにマークして動かさなかったスクラムサイドの好タックルも接戦になった原因であるが、早大FWをあくまで押しまくりほとんどルーズ(ラックやモール)のボールを奪った馬場、武田の奮闘が物をいった試合だった。早大は、その後1PGを追加して、18−14で辛うじて(戦後)初の定期戦をものにした。

 学生日本一を、と意気込んで東海道を下った関学は、早稲田に出鼻をくじかれる。迎える関東1位の明治は、年末の立命館と同志社戦に連勝、明けて1月2日関学と対戦する。しかし、関学は最初から元気に明治を圧倒して、26−12と下す。この時点で、朝日新聞は、「かくて今季全日本学生の一位は早、関、明ともに同率になった」と記す。

 関西学院大は、1947年から51年まで関西リーグ5連覇を飾り、毎年関東の雄、早稲田、明治と日本一の座を賭けて挑戦するが、

  1948年度 ●0−15 早稲田大
  1949年度 ●3−16 明治大
  1950年度 ●3−16 早稲田大
  1951年度 ●3−24 明治大

 と、関東から学生王座を取り戻せない。

 戦前から続いた学生日本一を決める方式は、やがて早慶明の低迷と関西の同志社大や関西学院大と定期戦のなかった日本大、中央大、法政大という新興勢力の台頭によって、1955年から63年までの9年間で、1958年(早大)と1961年(同大)を除く7回も東西1位の対戦がなく王座の空位が続く不測の事態が生まれた。

 そこで、1964年度から、東西の計4校による第一回東西大学ラグビー選手権大会(現在の大学選手権)がスタートする。その結果、伝統の慶応同志社、慶応京大といった東西の定期戦は、日程の変更を余儀なくされる一方、早稲田対関西学院の定期戦は中断される。試合方式が変更された2003−04年の大学選手権の1回戦で対戦、早稲田が、85−15と大勝するまで、夏の練習試合は組まれたが、公式戦での対戦は、39年間実現しなかった。

年表

秋山陽一(あきやま・よういち)
1947年東京神田生まれ。ラグビー競技歴なし。都立田園調布高校時代の同級生、漫画家の植田まさしや関西学院大教授の植島啓司がラグビー部にいた。1972年早大第一商学部卒。TVKテレビに入社し関東大学ラグビー中継に携わる。放送開始に当たって手書きの記録集「関東大学ラグビーハンドブック」を作成、これがラグビーの記録との出会いとなる。1990年頃から日本のラグビー黎明期の歴史に興味を持ち調べ始め、以後、神保町の古書街やラグビー協会の倉庫での発掘作業が続く。2003年1月からフリーに。

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