WEB会員募集中



Rugby football

ニュース・コラム

Wonderful Rugby 〜もっとラグビーを楽しもう〜

ラグビーに興味があるけどあまり良く知らない、あるいはラグビーを全く知らない人に向けて、これだけは知っておきたいラグビー情報をシリーズでお届けします。

Scrapbook history of rugby スクラップで読む日本ラグビー史〜

日本国内で、初めてフットボールに関する記事を取り上げたのは、一八六六年一月二十六日付けの横浜の日刊英字新聞ジャパン・タイムズ・ディリー・アドヴァタイザーである。旧暦にすると慶応元年十二月のことである。日本のラグビーのルーツ校といわれる慶応義塾にラグビーが導入される三十三年も前のことだ。横浜には、在留欧米人による長いスポーツクラブの歴史があり、それは今も横浜根岸台のYC&ACに引き継がれている。
 この連載では、以来現在に至る百三十七年余りの間に書きつづけられたラグビー記事を集めた私のスクラップブックの中から、その時々の話題を拾いながら最終的に日本ラグビー史を綴ろうというものである。

年表

■Vol.05 創部初試合 First Match vs The Third Highschool

 1918(大正7)年11月7日、早稲田大ラグビー部は、大学体育会に加入届けを出し、正式に発足した。部員は30名余り。この時点で関西には、第三高等学校、同志社大、京都一中、同志社中、京都一商などのチームが誕生していたが、関東では、横浜の外国人スポーツクラブYC&ACを除くと日本のルーツ校慶応大以外にチームはなかった。ただし、慶応の指導を受けた群馬の太田中が一時活動していたがこの時点では休止状態とあって、ラグビー部の誕生を慶応が大きな期待を持って迎えたことは想像に難くない。しかし、野球の早慶戦の紛争以来両校のスポーツ交流は、10年以上に渡って途絶えたままだった

 創部初試合は、二ヵ月後の正月7日。慶応大に続いて日本で二番目に誕生した京都の三高が慶応との定期戦に上京した際に実現した。

 東京日日新聞(現毎日新聞)の1月8日付け社会面の一番下に試合の記事がある。「運動界」の見出しに続いて、


▲早大対三高蹴球戦 十五対零にて早大の敗
 「昨日二時より戸塚運動場に於いて慶応の塩川審判の下に開始」とある。

 当日のグラウンドは、雪解けの泥濘という悪コンディション。試合経過は、ごく簡単に記されている。つまり、「半時間前に三高軍トライ四回ペナルテーフリーキック一回にて合計十五点を得」とある。半時間前とは、ファースト・ハーフの直訳。前半だけで当時3点だったトライ4、ペナルティ・キック1の合計15点。レフェリーの慶応主将塩川潤一は、大差になることを危惧して、30分ハーフの後半を早目に切り上げたという。結局初試合に早稲田は、無得点。15-0で敗れる。

 実はこの短い記事の中にいくつかの新事実が隠されている。三高蹴球部史(1984年刊)は、試合開始を「午後2時半、三高の先蹴」としている。しかし、東京日日の記事は、午後2時キックオフ。80年以上前の瑣末な史実を確定することの難しさがここにある。ただし、前日、慶応の三田綱町で行われた第六回慶応三高定期戦が、午後2時キックオフになっていることから類推すると、一次資料といえる東京日日の「二時」開始説が正解のようだ。

 さらに三高部史は、「三高方猛然と早大ゴールに迫り、まず鈴木トライを得、次いで鶴原亦トライ。更にPKを得て平田(注:城田か?)のキック見事に入り、尚続いて15点を奪取してハーフタイム」と得点者を記録している。最初のトライがFW第三列(7)鈴木(のち、一井)新次、続いて左WTB(11)鶴原浩二のトライ。PKを蹴ったのは、平田とするが、この名前は15人のメンバーの中にないため、注としてNo.8の「城田か?」としている。

 ここに二つの疑問が生ずる。当時トライとペナルティ・ゴールは、同じ3点。前記の部史の記述だけでは、15点の内訳が分からない。だから「早稲田ラグビー史の研究」の「全試合記録」の公式試合1では、前半2トライ以外の得点を「あと2つTかPGか不明」としている。しかし、東京日日のたった7行の試合記事によって、前半トライ4、PG1と残りもトライによる得点だったことが分かる。

 もう一つの疑問に答える記事が、朝日新聞社編「大正八年度運動年鑑」(1919年7月刊、大阪)にある。
「大正八年度の蹴球界」の見出しで、大正八年一月以降に行われたアソシエーション式とラグビー式両方の主な試合記録があり、「その他の試合」として次の記事がある。

 「三高十五 早大零(ラ) 一月七日午後二時半より早大にて挙行、三高鈴木、鶴原以下四回のトライと坪内のペナルティキックにて十五点を得大勝す」

 開始時間に異同はあるが、前半の得点が、4トライ1PGによるものと確認できるのと、三高部史では、はっきりしなかったPGのキッカーが、右CTB(13)坪内直文であると明記されている。参考にした試合記録の文字が判別し難かったのか、坪内→平田と読み違えたのだろう。同じ1月の18日に行われた大阪毎日主催第二回日本フットボール大会第一次戦、三高対京都一商の試合のプレース・キッカーが坪内であることからも間違いなさそうだ。

 新興早稲田の緒戦は、完封負けに終わったが、鈴木、鶴原、坪内以外2つのトライを誰が記録したのかは未解明とはいえ、記念すべき試合の内容解明に一歩踏み込んだことになるだろう。東京日日の後半の記事は、

 「早大軍三高軍の肉薄をよく防ぎしも回復し得ず結局十五対零にて早大の敗となる」と、後半の早稲田の奮闘振りを伝えている。三高戦は、1926(大正15)年まで5試合行われたが、最後の対戦で18-0と早稲田が初勝利を上げたもののそれ以後対戦はなく、戦後の学制改革で旧制高校が廃止され、通算1勝3敗1分と対国内チーム唯一の負け越しという記録だけが残った。

年表

秋山陽一(あきやま・よういち)
1947年東京神田生まれ。ラグビー競技歴なし。都立田園調布高校時代の同級生、漫画家の植田まさしや関西学院大教授の植島啓司がラグビー部にいた。1972年早大第一商学部卒。TVKテレビに入社し関東大学ラグビー中継に携わる。放送開始に当たって手書きの記録集「関東大学ラグビーハンドブック」を作成、これがラグビーの記録との出会いとなる。1990年頃から日本のラグビー黎明期の歴史に興味を持ち調べ始め、以後、神保町の古書街やラグビー協会の倉庫での発掘作業が続く。2003年1月からフリーに。

※スクラップで読む日本ラグビー史についてご意見・ご感想はこちらへどうぞ

お問い合わせ先 rugbycolum@wasedaclub.com