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Rugby football

ニュース・コラム

Wonderful Rugby 〜もっとラグビーを楽しもう〜

ラグビーに興味があるけどあまり良く知らない、あるいはラグビーを全く知らない人に向けて、これだけは知っておきたいラグビー情報をシリーズでお届けします。

Scrapbook history of rugby スクラップで読む日本ラグビー史〜

日本国内で、初めてフットボールに関する記事を取り上げたのは、一八六六年一月二十六日付けの横浜の日刊英字新聞ジャパン・タイムズ・ディリー・アドヴァタイザーである。旧暦にすると慶応元年十二月のことである。日本のラグビーのルーツ校といわれる慶応義塾にラグビーが導入される三十三年も前のことだ。横浜には、在留欧米人による長いスポーツクラブの歴史があり、それは今も横浜根岸台のYC&ACに引き継がれている。
 この連載では、以来現在に至る百三十七年余りの間に書きつづけられたラグビー記事を集めた私のスクラップブックの中から、その時々の話題を拾いながら最終的に日本ラグビー史を綴ろうというものである。

年表

■Vol.09 手取り力士 a flexible tactics

 1936年1月、ニュージーランド学生選抜NZUが初来日する。1932年カナダ代表、1934年オーストラリア学生選抜に続く3カ国目の外国代表チームとの対戦だが、これが日本にとっては、戦前最後の対外交流となる。

 ニュージーランドで、大学生の選抜チームが結成されるのは、1908年のこと。リンカーン・コレッジ(当時は、カンタベリー農業コレッジ)にラグビークラブが誕生したのは、1881年。2年後には、カンタベリー・ユニバーシティ・コレッジで試合が行われ、オタゴ、オークランド、ビクトリアの諸大学がこれに続いた。
 New Zealand Universities=NZUは、1908年オーストラリアに短期の遠征を行い、シドニー大に、9対30、11対26と連敗、メトロポリタン協会にも、6対14と敗れた。翌年シドニー大が、NZに遠征、ウェリントンで行われた2戦目で初めて、17対14と初勝利を飾る。NZUの初テスト・マッチは、1929年のオーストラリア学生選抜戦。遠征してきた豪州学生に3戦全勝する。

 それまで、豪州チームと交互に戦ってきただけだったNZUが、初めて赤道を越えて南半球に遠征したのが、1936年の日本遠征。日本では、学生代表と9対9で引き分けた以外は、全勝。行き帰りに寄港した香港での2勝を含め、9戦8勝1分。得点192、失点70の好成績を残した。

1月26日

 第一戦

 ○

31対3

 全関西

1月30日

 第二戦

 ○

23対6

 慶応大

2月02日

 第三戦

 ○

13対11

 明治大

2月06日

 第四戦

 ○

22対17

 早稲田大

2月09日

 第五戦

 ○

16対8

 全日本学生

2月11日

 第六戦

 ○

23対8

 関西学生

2月16日

 第七戦

 △

9対9

 全日本学生

※ 香港 ○29対6、○26対0

 1試合の最多得点は、31点。意外と接戦をしていると感じられるだろう。関東協会が発行した「Rugby Football」(Vol.6 No.3 1936年3月)に、面白い観戦記が載っている。
 「日新ラグビー戦スタンド雑感」として対戦したチームの選手や関係者の戦評が集められているが、その一番手、大倉直介の「手取り力士新西蘭(ニュージーランド)軍」は、次のように戦いぶりを分析する。

 「1. 新西蘭軍は手取り力士だ
新軍は其体格から見ても押一点張りの強力力士の如く見へるが、実際見ると手取り力士だ。即ち日軍の出す所謂「手」によって攻防共に其れに適応する種々な「手」を巧に使っては最後の得点をものにすると云うチームである。それ故新軍は世間では強いのか弱いのか分からないチームだと云われたのであって、それは手取り力士型チームであるからだと信ずるのである。そこで日本軍の様な身体の小さいチームはこの型を研究して見る事が必要であると思う。…」

 「手取り」とは、一言でいえば、かつての舞の海の様に技の宝庫のような取り口のことで、意外と思うだろうが、大学相撲で鳴らした故明大監督、北島忠治の相撲もこれだった。

 「4. バッキング・アップ
新軍は実に見事なバッキングアップをした。攻防共にそれを良くした。日軍が得点を許した時スケールで計った様なTBのトライ以外は思はざるエツキストラマンの現出によって良いチャンスを作り出し、従而これによって得点をしたのであると思う。これと同時にデフェンスの場合、我軍の駿鋭選手の独走を封じてしまった事も実に新軍のバックアップのうまさで、彼らは最もそれを忠実に行い又其しつこさも相当なものであったと見た。…」

 大倉は、日本のラグビーは近代に輸入したスポーツで、レフェリー、選手ともお手本通りの「楷書」で行っている。我国のラグビーをインターナショナルのレベルまで引き上げるためには、小学生の頃からラグビーボールに親しませることが必要で、「草書のラグビー」で行われる様にしたいものである、と結ぶ。

 来日した24選手のうちオールブラックスは、SOのC.C.ギーリス、CTB/WTBのJ.M.ワット、FBのR.G.ブッシュの3人。対戦した各チームの選手に強い印象を残した。

 前半11対4とリードした明治大、同じく11対9で折り返した早稲田大。ともに後半逆転負けを喫した。早大の野上一郎主将は、同じ「Rugby Football」にマーチン・スミス監督の言葉を引用して次のように書いた。

 「日本チームは非常にパスがスピーディーでいいが、パスが多すぎて前へ進むことを忘れていると云ったのは、確かにユサブリの最大の欠陥を指摘したものである。横への移動は現在の我国のプレーが最高であって、既にオープンへの邪道に進みつつあると思う。この修正には先ずスタンドオフのコースにあると思うが、スクラムサイドでの早い潰しに会うのでここにジレンマがある。新西蘭チームもこれには随分悩まされたらしい…」

 さらに、プレーが型にはまっていないこと、十五人が一様に訓練されていてボールがスクラムラインを越えて展開するとホワードとバックの見分けが付かない。あらゆる点で融通性に富みスケールが大きいと感嘆している。

 31年のブランクを挟み、NZUは、1967年に戦後初来日する。初戦の全早大を38対0と圧倒すると、最終戦では、全日本から前半5後半8のトライを奪い、55対8と9戦全勝の遠征を締めくくる。

 翌年にNZ遠征を控えた全日本の大西鐡之祐監督は、

 「ルースプレーを根本的に考え直さないと勝てない」

 NZUのビル・クラーク監督の「日本ラグビーの印象」は、

 「日本チームはルースを組もうとせず、こぼれ球を拾おうとする。ニュージーランドのFWはパックしてよい球を出す練習を十分にやっている。これはけっして体格の差ではない」

 と、FWは基礎練習を叩き込む必要があると説く。さらに日本選手はタックルされたあと、ラインに急いで戻らない。自分が戻らなければ一人欠員になるのだという観念をもっと徹底しなければならない。また攻撃が消極的。手にした球はなにがなんでもトライへ結びつける意欲が足りないと苦言を呈した。

 1982年を最後に中断していた交流は、1997年に日本Aとの定期戦として復活、今年は、NZUが来日する番である。過去63戦55勝6敗2分、勝率 .902。6敗2分の内訳は、日本代表2勝1分、日本A2勝、日本選抜1勝、日本学生1分、そして2003年の早稲田大37対31の勝利は、単独チーム唯一のものだ。

年表

秋山陽一(あきやま・よういち)
1947年東京神田生まれ。ラグビー競技歴なし。都立田園調布高校時代の同級生、漫画家の植田まさしや関西学院大教授の植島啓司がラグビー部にいた。1972年早大第一商学部卒。TVKテレビに入社し関東大学ラグビー中継に携わる。放送開始に当たって手書きの記録集「関東大学ラグビーハンドブック」を作成、これがラグビーの記録との出会いとなる。1990年頃から日本のラグビー黎明期の歴史に興味を持ち調べ始め、以後、神保町の古書街やラグビー協会の倉庫での発掘作業が続く。2003年1月からフリーに。

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